展示品>館長室たより 2018年

『金閣寺』の成立をめぐって

三島の小説作品とモデルとなった事件

 「虚実皮膜間」という言葉がある。近松門左衛門が残した創作論の一つで、「芸というものは実と虚との皮膜の間にあるものなり」という意味である。
 三島由紀夫は、戯曲『喜びの琴』の上演に際して、この言葉を用いている。
 「芝居といふものは絵空事で、絵空事のうちに真実を描くのだ、といふ確信は、近松門左衛門が、『虚実ハ皮膜ノ間ニアリ』と言つてゐるとほりである」
 三島の場合、「虚実皮膜間」は、当然、「小説」についても当てはまる。
 三島には、現実に起こった社会的な事件に題材を得た、いわゆるモデル小説がいくつもある。三島はそれら事件を綿密に取材し、そこから作品に必要な要素だけを抽出し、独自の文学世界を構築している。
 『金閣寺』を含めた、そういう作品のいくつかを挙げる。


『親切な機械』
 〈初出〉「風雪」昭和二十四年十一月
 〈収録〉『燈台』作品社・昭和二十五年五月三十日
 【小説の概要】
 京都大学の学生木山勉の生活は何事も楽々と成就したので、生活というものを軽蔑していた。彼は美学専攻の学生鉄子と別れるが、軍隊帰りの猪口順一は彼らの関係を知らず、鉄子に結婚を迫り、拒否されて殺害した。木山はそれが鉄子の期待であり、鉄子と猪口の隠密の合意があったことに世間は気が付いていないと思う。
三島の、いわゆる新聞ダネに取材した、事件小説の最初の試みとして位置付けられている。
 【モデルとなった事件】
 昭和二十三年四月十四日未明、京都大学文学部の学生が同じ京都大学の女子学生を、求婚を拒まれて殺害した事件。

『青の時代』
 〈初出〉「新潮」昭和二十五年七月~十二月
 〈初刊〉『青の時代』新潮社・昭和二十五年十二月二十五日
 【小説の概要】
 川崎誠は千葉県K市の名家に生まれ、将来を期待されて一高に進み、そこで強(したた)かな都会人、愛宕八郎を知る。六年を経て東大法学部で愛宕に再会すると、大学教授の娘、野上耀子を紹介された。誠は投資に失敗すると、今度は愛宕と耀子を雇ってヤミ金融会社〈太陽カンパニー〉を設立、銀座に進出をはかった。だが、次第に金詰りで会社は傾き、誠は自殺を決意する。
【モデルとなった事件】
 昭和二十四年十一月二十四日、ヤミ金融会社「光クラブ」の学生社長、山崎晃嗣(当時、東大法学部学生)が金策尽きて自殺した、いわゆる「光クラブ事件」。

『金閣寺』
 〈初出〉「新潮」昭和三十一年一月~十月
 〈初刊〉『金閣寺』新潮社・昭和三十一年十月三十日
 【小説の概要】
 貧しい寺の子として生まれた〈私〉(溝口)は、吃音で内向的な性格の子どもだった。父から教えられた金閣の美を思い描きつつ成長する。鹿苑寺の徒弟となった〈私〉は、金閣を間近に見る生活を送る。しかし、次第に金閣と相容れなくなり、美を怨敵と感じるようになった。老師との間も険悪になり、寺を出奔し、金閣を焼かねばならないと決意する。
 【モデルとなった事件】
 昭和二十五年七月二日、鹿苑寺の徒弟僧林承賢(戸籍名・養賢)の放火によって金閣寺が焼失した事件。

『山の魂』
 〈初出〉「別冊文藝春秋」昭和三十四年四月
 〈収録〉『詩を書く少年』角川書店・昭和三十一年六月三十日
 【小説の概要】
 小学校を出て直ぐ家業の材木業に従事した桑原隆吉は、大正十年頃には広大な山林を擁する材木王となっていた。折しも、庄川ダムの建設計画が起こった。ダムが出来れば流木が出来ず、庄川上流の民は飢える。後に「庄川流木事件」と呼ばれる八年間に及ぶ補償闘争で、隆吉は扇動家として活躍する。隆吉の熱情的言動は〈火の玉演説〉と呼ばれ、多くの心酔者を得た。
 【モデルとなった事件】
 庄川上流域の飛騨材や五箇山材の搬出は、古くから庄川の流れを利用して行われていた。その庄川に、大正八年、庄川水力電気会社が設立され、東洋一のダム建設が計画された。これに反対した木材業者や流送従事者との流木権をめぐる八年間の争議。

『宴のあと』
 〈初出〉「中央公論」昭和三十五年一月~十月
 〈初刊〉『宴のあと』新潮社・昭和三十五年十一月十五日
 【小説の概要】
 財界人が好んで使う高級料亭の雪後庵は東京小石川にあり、その女将福沢かづは五十代の半ばであるが、その魅力と気風のよさは当代一流であった。ある宴会の席で彼女は元外務大臣の野口雄賢と親しくなり結婚する。野口は革新党に属し東京都知事選に立候補することになる。かづは、雪後庵を抵当に選挙資金をつくり、その上、激しい選挙運動もやった。しかし、彼女の奮闘もむなしく野口は落選する。
 【モデルとなった事件】
 昭和三十四年の東京都知事選に元外務大臣の有田八郎が社会党から立候補した。自民党からの対立候補は東龍太郎であり、有田は落選した。

『絹と明察』
 〈初出〉「群像」昭和三十九年一月~十月
 〈初刊〉『絹と明察』講談社・昭和三十九年十月十五日
 【小説の概要】
 社長駒沢善次郎の家族主義を標榜するワンマン経営によって、大手の十大紡に迫るほどに成長した彦根の駒沢紡績の躍進ぶりは、大手の一つである桜紡績の社長村川にとっては心穏やかなことではなかった。彼は財界の黒幕的人物である岡野を使って、駒沢紡績に労働争議を起こさせた。争議は、駒沢の家族主義の偽善を明るみに出し、組合側が勝利をおさめ、駒沢は争議後間もなく脳血栓で亡くなる。
 【モデルとなった事件】
 昭和二十九年六月に起きた近江絹糸労働争議で、ストライキ闘争を闘うなかで基本的人権を獲得するに至った人権闘争として、戦後労働運動史上に特筆される事件である。




小説「金閣寺」の成立とその反響

 金閣寺放火事件から、綿密な取材を経て「金閣寺」は書かれている。その執筆の軌跡と、作品の反響を追う。

昭和二十五年(一九五〇年)
 七月二日(日) 午前二時分ごろ、鹿苑寺内の国宝金閣が徒弟僧・林承賢(戸籍名・養賢)による放火で全焼。のちに小説「金閣寺」の素材となる。
昭和三十年(一九五五年)
 十一月五日(土) から十九日(土)まで 「金閣寺」の取材。羽田から飛行機で伊丹空港へ飛び、タクシーで京都に行く。南禅寺近くの加満田旅館に宿泊。鹿苑寺とその周辺の取材のあと、モデルとなった林養賢の故郷、東舞鶴の取材に出る。京都に戻り、妙心寺の霊雲院に一泊して修行僧の生活を取材。再び加満田旅館に投宿、ここで喜劇俳優の伴淳三郎と出会い、飲食を共にする。桂芳久が同行したという桂の証言がある。
 十一月六日(日) 南禅寺周辺を取材。
 十一月七日(月) 鹿苑寺の取材。そのあと五番町の取材。
 十一月八日(火) 大谷大学の取材。
 十一月十日(木) 東舞鶴へ取材に行く。「金閣寺」創作ノート二冊目には「六時五五分京都駅発 山陰線、(豊岡)敦賀行二等車(亀岡―二条サガ京都から四つ目)」というメモがある。この列車か。保津川、東舞鶴、金剛院、由良川などを取材。取材ノートによると、十二日まで東舞鶴方面で取材をしたもよう。
十一月十九日(土) 「金閣寺」の取材を終え、帰宅。この日の舟橋聖一宛封書には「丁度けふ京都より帰り」とある。
昭和三十一年(一九五六年)
 一月 「金閣寺」を《新潮》に連載開始。十月号まで。
 三月 「金閣寺」取材のため京都に行き、祇園花見小路の旅館に宿泊。
 七月三十日(月) 熱海ホテルに滞在中の三島を新潮社の小島喜久江が訪ね、一泊し、「金閣寺」の原稿を受け取る。
 八月十四日(火) 熱海ホテルで「金閣寺」擱筆。
 十月三十日(火) 「金閣寺」新潮社刊。特装限定版二〇〇部も同時刊行。
昭和三十二年(一九五七年)
 一月 小林秀雄との対談「美のかたち―『金閣寺』をめぐって」を《文芸》に掲載。
 一月二十二日(火) 第八回読売文学賞の授賞作品を決定する委員会開催。「金閣寺」が久保田万太郎の「三の酉」とともに、小説部門での授賞決定。
 一月二十九日(火) 十一時から「金閣寺」の読売文学賞授賞式に出席し、講演を行う。
 二月十二日(火) 大岡昇平宅で、三島と吉田健一の読売文学賞受賞祝賀の鉢の木会。
 五月五日(日) 劇化した「金閣寺」を新派が新橋演舞場で初演。脚色、演出・村山知義、出演・花柳喜章、花柳武始ほか。二十九日まで。
昭和三十三年(一九五八年)
 四月二十八日(月) アイヴァン・モリスの「金閣寺」訳稿の完成を祝い、モリス夫妻とマッカルパイン夫妻をプルニエの午餐に招く。
 六月七日(土) 藤井浩明の案内により、大映京都撮影所で市川崑監督による映画「炎上」の撮影見学。「金閣寺」の映画化。夜、瓢亭で撮影所長の招宴。
 七月二十七日 ニッポン放送でシネマ劇場「炎上」(午後九時三十分~十時)放送。脚色・村山知義、出演・木村功、信欣三、高野由美、山内明ほか。「金閣寺」のラジオドラマ化。八月十七日まで、全四回。
 八月十二日(火) 午後、夫妻で、大映本社で「炎上」の試写を見る。試写会のあと、座談会。
 八月十五日(金) 《毎日新聞》(十八日夕刊)掲載の「映画『炎上』を語る」のため、市川崑、市川雷蔵と京橋の大映本社で鼎談。
 八月十九日(火) 大映映画「炎上」封切。監督・市川崑、脚本・和田夏十、長谷部慶治、出演・市川雷蔵、仲代達矢ほか。
昭和三十四年(一九五九年)
 四月十二日(日) クノップ社よりアイヴァン・モリス英訳「金閣寺」が届く。
 五月二十二日(金) 剣道ののち、《中央公論》七月号掲載の「荷風文学の真髄」のため、伊藤整、武田泰淳と八百善で鼎談。帰宅後、《ニューズウィーク》一八日号掲載の、アイヴァン・モリス訳「金閣寺」の書評を読む。
 六月二十七日(土) NHKラジオ第二「現代日本文学特集第五夜」(午後八~十時)で、ラジオドラマ「金閣寺」(出演・神山繁、林佐知子ほか)に続く座談会「作品をめぐって」に井上靖、山本健吉と出演。
 九月一日(火) ベニス映画祭で「炎上」(監督・市川崑)を上映。好評を博すが受賞はならず。
 十月十四日(水) スウェーデンにおける「金閣寺」出版について契約。
昭和四十五年(一九七〇年)
 十一月二十五日(水) 自衛隊に決起を促したが果たさず自決した。
昭和四十八年(一九七三年)没後三年
 四月二十五日(水) 「三島由紀夫全集」(全三十五巻+補巻一)新潮社より刊行開始。監修委員・石川淳、川端康成、中村光夫、武田泰淳。編纂委員・佐伯彰一、ドナルド・キーン、村松剛、田中美代子。装幀・杉山寧。限定一〇〇〇部の総革装本も刊行。第一回配本は「金閣寺」などを収録した第十巻。昭和五十一年六月二十五日完結。
昭和四十九年(一九七四年)没後四年
 一月 「『金閣寺』創作ノート」が《波》に掲載される。三月号まで。
昭和五十一年(一九七六年)没後六年
 六月二十三日(水) オペラ「金閣寺」をベルリン・ドイツ・オペラで上演。作曲・黛敏郎、脚本クラウス・H・ヘンネベルク、演出G・R・ゼルナー、指揮カスパール・リヒター。出演ウィリアム・ドゥーリー、ドナルド・グローベー、野村陽子ほか。二十五、二十七日にも上演。
 七月十七日(土) 映画「金閣寺」封切。たかばやしよういちプロ・映像京都・ATG提携作品。脚本・監督・高林陽一、出演・篠田三郎、柴俊夫、島村佳江ほか。
平成三年(一九九一年)没後二十一年
 三月六日(水) オペラ「金閣寺」をオーチャードホールで上演。演出ヴィンフリート・バウェルンファイント、指揮・岩城宏之、管弦楽・東京フィルハーモニー交響楽団、合唱・東京混声合唱団、出演・勝部太、亀田真由美ほか。八日にも上演。日本での初演。字幕付きドイツ語上演。
平成七年(一九九五年)没後二十五年
 十月十九日(木) オペラ「金閣寺」をニューヨーク・シティ・オペラがニューヨークのリンカーン・センターで上演。クリストファー・キーンの英訳。演出ジェローム・サーリン、出演ユージン・ペリーほか。出演者、スタッフは全員アメリカ人。十一月八日まで。
平成九年(一九九七年)没後二十七年
 十一月二十七日(木) オペラ「金閣寺」を大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスで上演。作曲・黛敏郎、演出・栗山昌良、指揮・岩城宏之。二十九日にも上演。
平成十一年(一九九九年)没後二十九年
 十一月二十三日(火) 舞踊化した「金閣寺」を日出処舞踊劇場が東京グローブ座で上演。台本、振付、演出・本間直樹。



『金閣寺』の成立をめぐる三島の証言

 『金閣寺』は、発表当初から傑作と言われ高く評価された。〈文学〉らしい文学、〈小説〉らしい小説、つまり文学や小説の自己証明となる作品であると言われた。
 小説『金閣寺』について三島が語った熱い思いを著述、対談、書簡などから辿る。

昭和三十一年 西久保三夫 宛(葉書)
 専ら小説「金閣寺」に熱中してゐます。やはり小説が一番たのしい。

昭和三十一年十一月一日 川端康成 宛(封書)
 自分のことばかりになりますが、七日ごろ豪華本「金閣寺」といふ成金趣味の金ピカ本が出来ますので、それをお送りいたし、普及版はお送り申し上げません。

昭和三十二年一月(小林秀雄との対談「文芸」)
小林 いつか、金閣焼いた人があるでしょ、あれ調べて書いたの、あなた。
三島 ええ、調べたんですけどね、当人には会わなかったんです。当人の経歴をズッと調べたんです。(略)
あれはね、現実には詰ンない動機らしいんですよ。見物人が来る、若いやつがきれいな恰好(かつこう)してね、アベックで見物に来たりする、それがシャクにさわる、自分は冷飯食わされてて、みじめな恰好してるしね、自分の青春は台なしになってしまう。そういうことらしいんです。住職が因業だ、なんていうこともあるらしいんだけど、大した動機はなかったらしいんですね。
小林 そりゃそうだろうね。三島君のは動機小説だからね、だから、あれはむつかしかったでしょう。(略)
三島 本来は動機なんかないんでしょうね、ああいうことをやるやつ。
小林 ないでしょうね。……で、まあ、ぼくが読んで感じたことは、あれは小説っていうよりむしろ抒情詩だな。つまり、小説にしようと思うと、焼いてからのことを書かなきゃ、小説にならない。(略)

昭和三十二年二月(評論・〈初出〉未詳)
 「私の商売道具」
 さる二十九日は「金閣寺」の読売文学賞授賞式が午前十一時からあり、いつも午後に起きる私には大へんな早起きでした。その上、式のあとで講演があり、五年間、ただの一度も講演をやらずにぐわんばつたのに、たうとうその記録を破る羽目になつた。もつとも、これから他処(よそ)から講演をたのまれたら「読売賞と同じ二十万円くれれば、やってもいい」とすごむことにしよう。
 この講演は、五年ぶりだけあつて、初講演みたいにアガつてしまひ、その上お祝酒がだんだん回ってきて息が切れる始末で、全然失敗でした。(略)
 〈初刊〉「現代小説は古典たり得るか」・新潮社・昭和三十二年九月

昭和三十二年五月(評論・〈初出〉新派プログラム)
 「長篇小説の劇化―『金閣寺』について」
 長篇小説の劇化といふものは、想像以上にむつかしいものである。大てい長篇小説は長い時間の経過を扱つてゐて、「金閣寺」もその例外ではないが、又、およそ各種の芸術のなかで、長篇小説ほど、享受者を永いこと引き止めておくことのできるものもないのである。(略)
 たとへば「金閣寺」は、言葉でもつて、主人公の脳裏にうかぶ金閣寺の幻を執拗に追ひつめてゆくが、それは読者の頭にもつひに同じ幻をうかばせる捷径(せふけい)である。読者は言葉のつみかさねと、小説の長さとによつて、徐々に利いてくる毒のやうに、欺(だま)されなければならない。しかし芝居では、まづ長さに限度がある。また視覚による制約がある。言葉だけにたよることができない。(略)
 〈初刊〉「現代小説は古典たり得るか」・新潮社・昭和三十二年九月

昭和三十二年五月(日記・〈初出〉「新潮」・昭和三十三年四月~昭和三十四年九月〔昭和三十四年八月休載〕)
 「裸体と衣装―日記」
 昭和三十三年六月七日(土)
 旅行に出てからはじめての雨である。大映京都撮影所で市川崑監督の撮ってゐる「炎上」(「金閣寺」の映画化)見学のため、わざわざ東京から来てくれた藤井プロデューサーの案内で、撮影所へゆく。所長に挨拶をしてから、京阪神の二十数人の記者による記者会見に引張り出されたのにはおどろいた。
 セットは柏木(かしはぎ)の下宿の場である。仲代達矢君の柏木が、市川雷蔵君の扮する主人公を難詰する場面。頭を五分刈りにした雷蔵君は、私が前から主張してゐたとほり、映画界を見渡して、この人以上の適(はま)り役(やく)はない。
 一旦ホテルへかへり、夜、瓢亭(へうてい)で撮影所長の招宴。

昭和三十三年六月十一日(水)
 動機なき犯罪とは、現代では空想の所産に過ぎず、無動機に見える犯罪ほど、非合理的なノンセンスな動機に動かされてゐるのである。私が「金閣寺」で書いたことは、犯罪の動機の究明であつたが、「美」といふ浅薄な愚かしい観念だけでも、国宝に対する放火といふやうな犯罪の十分な動機になり得る。(略)

昭和三十三年八月十二日(火)
 午後、十二時半から、妻と、大映本社へ「炎上」の試写を見にゆく。「金閣寺」の映画化である。シナリオの劇的構成にはやや難があるが、この映画は傑作といふに躊躇(ちうちよ)しない。黒白の画面の美しさはすばらしく、全体に重厚沈痛の趣きがあり、しかもふしぎなシュール・レアリスティックな美しさをもつてゐる。放火前に主人公が、すでに人手に渡つた故郷の寺を見に来て、みしらぬ住職が梵妻(ぼんさい)に送られて出てくる山門が、居ながらにして回想の場面に移り、同じ山門から、突然粛々と葬列があらはれるところは、怖しい白昼夢を見るやうである。俳優も、雷蔵の主人公といひ、鴈治郎の住職といひ、これ以上は望めないほどだ。試写会のあとの座談会で、市川崑監督と雷蔵君を前に、私は手ばなしで褒めた。かういふ映画は是非外国へ持つて行くべきである。センチメンタリズムの少しもないところが、外国人にうけるだらう。

昭和三十四年四月十二日(日)
 クノッブ社からやつと「金閣寺」のアイヴァン・モリス氏の英訳本が届いた。ジャケットはともかく、本そのものの体裁や、活字の組みは、クノッブ独特の高雅なものだが、各章のはじめにへんな古くさい墨絵の挿画が入つてゐるのには閉口する。もつともストラウス編集長は、米国読者のための装幀だからそのつもりで見てくれと、前以て釘をさして来はしたが。
 〈初刊〉「裸体と衣装―日記」・新潮社・昭和三十四年十一月

昭和三十四年四月二十一日 キーン・ドナルド 宛(封書)
 お手紙ありがたうございました。「金閣寺」の御書評をありがたう。貴兄に書いていただければ、たとへけなされても、以て瞑すべしです。タイムズを読むのをたのしみにしてゐます。本も最近届きましたが、「潮騒」よりずつと趣味のいい本になりました。(略)

昭和三十四年五月(文学自伝・〈初出〉「群像」)
 「十八歳と三十四歳の肖像画」
 (作家に精神的発展があるかということについて、「盗賊」一九四八、「仮面の告白」一九四九、「愛の渇き」一九五〇、「青の時代」一九五〇、「禁色」第一部一九五一・第二部一九五三、「潮騒」一九五四、「沈める滝」一九五五などの作品を例にあげて語ったあと)
 ついで、やつと私は、自分の気質を完全に利用して、それを思想に晶化させようとする試みに安心して立戻り、それは曲がりなりにも成功して、私の思想は作品の完成と同時に完成して、さうして死んでしまふ。
 労作のあとの安息。古典的幾何学めいた心理小説への郷愁が生まれるが、その郷愁はもはや昔のとほりの形では戻つてこない。(略)
 〈初刊〉「美の襲撃」・講談社・昭和三十六年十一月

昭和三十九年一月(評論・〈初出〉日生劇場プログラム)
 「雷蔵丈のこと」
 君の演技に、今まで映画でしか接することのなかつた私であるが、「炎上」の君には全く感心した。市川崑監督としても、すばらしい仕事であつたが、君の主役も、リアルな意味で、他の人のこの役は考えられぬところまで行つてゐた。ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだのであらう。私もあの原作の「金閣寺」の主人公に、やはり自分の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだ。さういふとき、作家の仕事も、俳優の仕事も、境地において、何ら変るところがない。(略)
 〈初刊〉三島由紀夫全集三十一・新潮社・昭和五十年十一月

昭和四十年二月二十日(評論・〈初出〉東京新聞〈夕刊〉)
 「室町の美学―金閣寺」
 「金閣寺」を書くに当つて、京都へ取材に出かけたが、金閣寺自体からは面談・取材を断られたので、ただ情景を見るだけにとどめ、僧坊生活については、同じ臨済宗ながら異派の妙心寺派の妙心寺の好意によつて、霊雲院に一泊をゆるされた。
 ここで生まれてはじめて、私は禅寺の生活を瞥見(べつけん)したのであるが、小説「金閣寺」を書くにつけても、私は禅の研究からこの題材に興味を持つにいたつたのではなく、題材とその  人間心理への興味から、背景である禅宗を研究せざるをえなかつたのであつて、研究といふ名にも値ひせぬ浅い取材である。(略)
 主人公の郷里に近い舞鶴方面へも旅をしたが、あちらの北の海岸の荒涼たる景色は心に深く刻まれ、主人公が放火を決意する重要な心象風景として用ひた。(略)
 金閣寺は一人の見物人として、見られるかぎりのところを見、入れるかぎりのところへ入つて、使えさうな場所をことごとくノオトに採集した。私の取材は、さういふ意味では、植物採集や昆虫採集に似てゐる。(略)
 私にとつて焼けてしまつた金閣は、大して魅力のあるものではなく、子供のころ見たのをおぼえてゐるだけで大して美しいと思つた記憶ものこつてゐない。作中の主人公がそれを美しいと思へば十分なのであつて、その点は主人公への共感はあまりないのである。
 私のむしろ好きなのは、新築の、人が映画のセットみたいだと悪口をいふ、キンキラキンの金閣である。あそこにこそ室町の美学があり、将軍義満の恍惚があつたのだと思ふ。(略)
 〈初刊〉三島由紀夫全集三十一・新潮社・昭和五十年十一月

昭和四十五年七月(評論・〈初出〉「波」第十六号)
 「小説とは何か」十二
 このごろは一般に小説家の偽善的言辞を弄(ろう)する者が多くなつて、偽善の匂ひの全くしない小説家といへば、わづかに森茉莉さんと野坂昭如氏ぐらゐしかゐないのはまことに心細い。これはもちろん、内田百閒氏や稲垣足穂氏のごときは別格と考へての上である。
 私はかつて昭和二十三年に「重症者の兇器」といふ漫文を書き、その中で、「私の同年代から強盗諸君の大多数が出てゐることを私は誇りとする」と書いたが、今もこの心持は失つてゐないつもりである。「金閣寺」といふ小説も明らかに犯罪者への共感の上に成り立つた作品であつた。
 私がこんなことを言ひ出したのは、輓(ばん)近(きん)のいはゆるシー・ジャック事件のことからで、これに対する文士の反応は、弁天小僧を讃美した日本の芸術家の末裔(まつえい)とも思へぬ、戦後民主主義とヒューマニズムといふ新らしい朱子学に忠勤をはげんだ意見ばかりであつた。(略)
 〈初刊〉「小説とは何か」・新潮社・昭和四十七年三月>




三島の自負心はいささかも揺るぐことはない。それは、「金閣寺」の作家に相応しい確かな重みと手応えを感じさせる。

全国文学館協議会  紀要十一号(二〇一八年三月三十一日)寄稿
※「紀要」は縦書きですが、都合により横書きにしてあります。


小さな文学館の大きな喜びⅤ(近況報告)

 10月の福井県ふるさと文学館での全文協の部会で、興味深い議論が展開されました。事例報告の一つで、開催期間中に展示内容を変化させているという報告がありました。その館では、そういうことが普通になっていて、開催当初と最終日ではかなり展示が違っていることもあるようでした。来館者には不公平なのですが、「増殖・進化する展示」という意味では面白いと思いました。そこでこういう質問をしました。「企画展示の変貌は、それ以前の来館者にどう知らされるのか」。初日に来た人に対して不公平だと思って訊きました。答えは「個人のツイッターで知らせるだけで、取り立てて告知していない」とのことでした。
 この遣り取りに、山崎一頴会長から、全く別の観点の意見が出されました。「企画展は、職員が何カ月もの時間をかけて準備した成果である。それをそんなに簡単に変えてよいのか」。文学館の増殖と進化は否定されませんでしたが、それはもっと長い時間の中で思考すべきことと考えておられるようでした。それだけに、一つの企画展開催には十分な準備をしなければならないと改めて思いました。
 部会の後、この文学館の施設見学をして、企画展も案内してもらいました。福井は、「解体新書」を著わした杉田玄白の出身地とかで、氏の展示コーナーもありました。この夏に訪れた時には、「医と文学」という杉田玄白を中心とした企画展を開催していましたが、この時には常設展示の一部として縮小されていました。
 その玄白のコーナーに見事な揮毫の軸が掛けられていました。達筆過ぎて直ぐには読めませんでしたが、玄白の筆になるものとのこと。「医事不如自然」と書いてあり、「医事は自然に如(し)かず」と読むそうです。今流に言えば、如何なる医療も自然の治癒力には及ばない、という意味になります。ちょっとのくしゃみや鼻水で、直ぐに薬に手を出す身であるので、余計に心に染みる言葉でした。
 11月は、金沢のTV局から取材を受けました。三島由紀夫の「美しい星」の吉田大八監督による映画化で、石川県もロケの舞台として扱われています。そこで、三島の命日(11月25日)に因んで、「三島文学の舞台を歩く」という番組を作りたいとのことでした。ポイントは、三島にゆかりのない富山でどうして文学館を開設したか、また私の三島に対する思いを聞きたいということで、1時間半の取材でした。放映された番組は丁寧に編集されており、その日のHPのアクセスは意外に多かったので、来春にはまた石川県からのお客さんが多いかもしれません。
 来春は、三島が最も愛した短篇の一つ「橋づくし」がテーマの企画展です。小さな企画ですが、分かり易くて納得してもらえる展示にしたいと思います。



(2017年12月)
(隠し文学館 花ざかりの森 館長)

全国文学館協議会会報 第70号(2018年1月31日発行) 寄稿